逆転と心理遺伝

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

「(…中略…)……なるほど人を殺したという結果から考えると、殺人狂とでも言えるかも知れないが、その殺人狂が寒暖計の代わりに人間の頭をタタキ割ったものとしたらどうだい。(…中略…)たとえば赤い絵具が欲しいという欲望が起これば、その精神患者は他人の頭をタタキ割るのも、赤いアルコール入りの寒暖計をブチ壊すのも、同じことに心得ているのだからね。その真実の目的が、赤い液体を手に入れて赤い絵を描きたいためであったとわかれば、けっして殺人狂なぞという名前はつけられないであろう。(…以下略…)」

狂うということはどういうことなのか。手段が目的化することではないのか。それとも目的のためには手段を選ばなくなることなのか。結果が、正常か狂気かを判断する手段とならないならば、その結果に至った過程、それを引き起こした原因から推測をしなければならないことになる。

結果は後から存在する。何の後に?
手段を講じた後に、だ。では、何のために手段を講じる?
それは、目的のために、だ。発生順序は、目的→手段→結果となる。

「死」は結果だ。では、「生」は、目的か手段か?「生」が目的となると、目的の「生」と結果の「死」の間に手段が存在しなければならない。ということは、「生」は手段と考えるのが自然だろう。

目的の「○○」手段の「生」結果の「死」。この○○とはいったい何なのだろう?

一つ言っておくべきことは、「歌を歌うために生きている」とか「家族を守るために生きている」という常套句は、○○には入らない。なぜなら、目的があって初めて手段が生じるのであり、手段から先に発生することは、ありえない。それらは単なる後付の理由だ。「生」が目的となると、私もあなたもあの人の目的も同じであり、アイデンティティが無効化され、自我が耐えられなくなる。だからこそ、私だけの「目的」を後から創出したくなる。

繰り返すが、「生」は手段だ。となると、目的の「○○」は手段の「生」よりも前に存在していなければならないことになる。

単細胞生物から水中生物、沖に上がった陸上生物の中から類人猿が生まれ、そして人間となる。その連綿たる進化の歴史が刻み込まれた遺伝子。その中に目的の「○○」が存在する。DNAが持つ塩基配列に潜む「○○」、それは肉体形質情報のみに見出されるわけではない。それは本書の中で正木博士が覆そうとしている唯物的世界観によった見かただ。ここで注目すべきは、博士がその存在を世間へ知らしめようとした唯神的世界・精神科学にある。その精神的世界が浮き彫りにしたのが「心理遺伝」。悲劇は、この「心理遺伝」に始まる(そして終わる)。

「ヘエーッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。ありすぎて困るくらいだ。……すなわち宇宙空間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化してきたもので、コイツに囚われている奴ほど自由の利かない下等な存在ということになる。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言(プロバガンダ)を、新生(あらき)のまま民衆にタタキつけたのがキリストで、オブラートに包んで投(ほう)りだしたのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で囃(はや)し立てて売り出したのがお釈迦様ということになるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞという当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を貪ろうと企てているのが、ここにいる我輩ということになるがね……ハッハッハッ……(…以下略…)

ここで起きるのは、逆転による悲劇。逆転のもたらしたものが「心理遺伝」を媒介にし、事件を起こす。物語は進む。そして最後に辿り着くのは、私が今体験している事実、その真実さえ逆転を内包していたという……。