よしながふみと具体性と志村貴子と

具体性は納得感をもたらす

つい先日ある人から聞いたお言葉。話の流れとしては、<人をほめるのには、漠然と褒めるだけじゃ「なんだこの人。(おれに)擦り寄ってきてるみたいで、気持ち悪い」となるので、その人の(行動の)どこがよかったのか例証を挙げてほめろ>ということをで、それを一言で表すと上記の言葉になる。
その話をきいて思いついたのが、よしながふみのこと。よしながふみの作品の中で、特に何かについて熱く語るときに、そのどこがよかったのか、を説明する部分のセリフはひたすら長い。みっしり言葉が詰まっている。ぱっと思いつくのが「フラワーオブライフ」の武田さんの描いたマンガを絶賛する部分とか、「愛がなくても喰ってゆけます」の食べたものの感想1つ1つなど。
言葉というのは、価値観を共有するためのツールだ。自分が良いと思ったものがなぜ良かったのか、どこがよかったのか、それによって自分の感情がどう刺激されたのかを、それを相手にも同じレベルで知って(共有して)もらいたい時、それらを駆使すること(微に入り細に入り説明をすること)になる。
言葉を駆使することは、頭をよく使うことになる。自分が何かに触発された時の感情(非言語化)を、共通のコードに乗せる(言語化)行為は、意識しなければできないことだから(グルメレポーターが美味しいものを食べた時、単に「美味しい」と言うのと「この甘い昆布ダシが、豆腐のすっきりした感触に合いますねぇ」と言うのでは、あきらかに(共有させようとする)意識・頭の働きの差がみてとれる)。
だが、言葉は飾ることもできる。簡単に言ってしまえば、「リクツを捏ねる」ことが出来てしまう。タモリが言葉の虚飾性に言及していた(ボヤいていた!?)のをどこかで聞いたことがあった。脱構築文芸批評もその良例として挙げられるのではないか*1
説明は恐れている。何を?
自分の感じたことと、相手(他人)の感じたこととのズレを、だ。
だから、説明することはできるだけ相手の感じることを自分の感じたことに引き寄せる行為と言える。事実に対する説明ならば、そこには客観という性質(あるいは目的)があるので、説明があるにこしたことはない。一方、感情に対する説明は、主観という性質があるので、相手の感じることを自分の感じたことに引き寄せる行為に胡散臭さ(うざさ)を感じることがある(それはあんたの思ってることでしょ!?と)。
よって、説明を省くということは、相手の創造性に委ねる、自分の感じたことと相手(他人)の感じたこととのズレを許容する(または、相手の感じることを自分の感じたことに引き寄せることへのあきらめ)を意味する。このことを端的に表しているのが、志村貴子のマンガだと思う*2。本人もインタビューで「なるべく説明しすぎないようにしている」と言っているし。

この話のオチはというと、そんな両極にいる作家の両方ともkiaoは好きなのです、という話(なんだそりゃ)。

ちなみに、よしながふみが良く使う<顔面を3コマくらい同じカットで続けて涙を流す>みたいなのも、動的な部分と非動的な部分を明確化することにより、読者に「注目すべきところはここですよー(例えば涙)」という念入りの説明と言える*3

*1:とえらそーなこと言っておきながら、kiaoはこれを聞きかじりレベルでしか理解していません。この無教養者が。

*2:本当はとり・みきなのだろうけれど、あえて挙げず。

*3:ここだけは、kioaにとってはあまりにも押し付けがましく感じてしまい、ちょっと好きでないところ。