自意識という名の病

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

誓って言うが、意識しすぎること――これは病気だ。本物の完全な病気だ。人間の日常にとって、普通の人間が持つ意識だけでも充分過ぎるぐらいなのだ。

kiaoは基本的に他人が何をしていようとあまり気にならない。世間で何が流行ってようが、どんなものが好まれているのか、認識はするが合わせてみようとはつゆほども思わない。身近な人に対しても、人が自分を好もうが否かはあまり問題ではなく、自分がその人を好きか嫌いかのほうがよっぽど重要だったりする。だからその人が自分を好きでなくとも自分はその人を好きであったり、逆にその人が自分を好きであっても自分はその人を好きでないことも十分にありえる。
すべての基準は自分にある。
自意識の肥大。
意識は自分に向けられるか、他人に向けられるか、そのどちらかしかない。ということはつまり、意識というものは常に「何か」に向かい続けるモノと言い換えることが出来る。
続ける。止まることがないこと。変化。流転。時間にも似た…。
他人は(自分から見たら)常に変化し続ける(ように見える)。変化する他人を見る。だが、自分はどうだ。自意識の強い人は、自分を見続ける。自分を見続けるということは、どういうことか。
自分を見続けるということは、変化する自分を見続けるということだ。
例えば、人を何もない白一色の部屋に配して、何も情報を与えずに閉じ込めておくと、あまりの変化のなさについには幻覚を見さえするという。むりやり変化を与えたりする。
自意識の強い人、自分を見続けるという人というのは、常に自分に変化を与える人のことをいうのかもしれない。もしくは、変化をしなければ(その強い)自意識を保てないのかもしれない。
ただ、この変化は改善と言ったニュアンスを必ずしも含むものではない。自意識が強い人が、他人の(自分への)視線が気になって、それを自分の中で変化させ、肥大化させ、強迫観念症に陥るなんてこともままある。
そう考えてみると、読書と言う行為も自分を刺激し、変化させる、自意識の強い人にはうってつけのことなのかもしれない。

家ではもっぱら読書三昧だった。外からの刺激で、己の内に絶え間なく煮えたぎっているもののすべてをなんとか抑えこみたかったのだ。そして俺にとって実行可能な外からの刺激と言えば、読書しかなかったのである。
(…中略…)
読書以外に行くあてもない。――つまり、当時の俺の周りには、俺が尊敬できるもの、心惹かれるようなものはなにひとつなかったのだ。