紡ぎだされ、躍動する言葉writer

サウンドトラック 上 (集英社文庫)

サウンドトラック 上 (集英社文庫)

感情を有しているのは運動だ。あたしの顔ではない。それは踊りではないのです(原文傍点部)。

古川日出男の文章は、エレクトリックベースにちかいかもしれない。メロディと同時にリズムを空間に刻み込む。その両義性を特徴に持つそれと。
この文体、かなり好きだ。圧倒的に語っている、無色透明でない。kiaoが小説に求めるものを、かなり満たしてくれているような気がする。
トウタという運命、ヒツジコという運命。そういう大きなものを、「そんな大げさな…」なんて斜に構えず、まっすぐに投げつけてくる。豪快なストレート。
まさに「記述の運動性」。物語は、記述するために存在するのだ。言葉が何らかの意味を持たずにその存在足ることができないのと同様に、記述だってその記述すべき対象、物語る対象、が存在(い)なければ紙の上に存在(い)る意味がない。
記述すべき対象とは何だ?人間に決まっているだろう!!
舞城王太郎は、登場人物に大いに語らせる。古川日出男は、登場人物を大いに語る記述者か!?そして共通するのは、読者に向けて小細工を用いずに、勝負を挑んでいるところ。潔し。
この考察が正であるか否であるか、これからいくつか作品を読むうちに自ずとわかってくることだろう。それにまだ、下巻も残っているのだし。

「小説」は「語りの疑似透明性」などというドグマに囚われたまま、「かったるさ」のなかで煮詰まっている。
そんなクソみたいなジャンルの壁を現実に破壊できるのは、「透明な語り」の「かったるさ」をオリジナルなアクションによって突き抜けてゆける、スピーディでパワフルでソウルフルな動詞存在としての本物のwriterだけだろう。


Minimaum Soul,Maximumu Rock’n’roll 古川日出男仲俣暁生 「「鍵のかかった部屋を」いかに解体するか」