踊りという舞踏(武闘)を持つガールズ

サウンドトラック 下 (集英社文庫)

サウンドトラック 下 (集英社文庫)

その主催者は、数センチの傾きだけで新参の少女たちの死角を指摘でき、修正できた。あるポジションから、地面が喪失するように数秒間だけ傾き、次のポジションに移っている、その運動が雄弁に物理の教科書三冊ぶんの講義を行った。手を、まっすぐにさしだして、集団で指南を受ける少女たちに、暗示をかけるように指先を動かしてみせる、それだけで重要なパターンを教えさとした。長い手足と、長い髪が、ほとんど神秘(ミステリー)を喚起した。指導される少女たちが列となって踊る、反(そ)る、だがズレる、しかし単純な稚拙さとは感じられない、むしろ個人の内部で時間は当然だが個人的に経過してそのため群舞はズレる、と宣言しているように直観される。人間一人ひとりの時間は実際には噛みあわない、と。
(…中略…)
ヒツジコが教室(そこ)にいる少女たちのむきだしの心臓だった。

以前から、読んでるときに楽しめればオチといったところでまとめなくても、整合性を持たなくてもいいのではないか、と思っていた。で、この「サウンドトラック」がまさにそれだった。まさに投げっぱなしジャーマン(笑)
…前言撤回しようかな(笑)いやいや、それは冗談だけど。別に文句があるわけではない。読んでいる最中は本当に楽しめたし。ただ、最後の最後に来て勿体ないな、と思っただけ。これだけ魅力的な人物を生み出してあるのに*1
特に一番のお気に入りはヒツジコ。トウタがどんどんアウトローに落ちてゆくのに比べ、レニが少年と少女の挟間を意識的に揺れるのに比べ、ヒツジコはひたすら自分自身の道を駆け上がってゆく。ヒツジコという踊りは、ヒツジコという運動は、少しずつ少しずつ周りにいる少女たちを巻き込んでゆく。
この周りの少女たちを巻き込んでゆく過程が、まさに作者の筆の見せどころで、読者(kioa)をもその踊りに魅かれていってしまう。ヒツジコの踊りという「運動」が、古川日出男の記述という「運動」において代弁される。ヒツジコが持つ「テンポ」は、古川日出男が持つ「テンポ」によって天成される。
だが、実は記述自身はヒツジコの踊りが持つ力を描くことに己を費やす。ヒツジコの舞踏を見るために必要なのは、記述から飛翔する想像(創造)。ヒツジコが舞踏譜からやがて彼女独自の舞踏、彼女独自の力を発揮してゆくように。アゴーギク(Agogik)。踊りに精彩さを与えるのは、楽譜に指示されていない微妙なテンポの変化で生み出すそれ。

*1:ただ、世界を暴走させる力を持ち、その実現の可能性という最も大きな力を孕んだ状態で終わらせることが、ヒツジコ達を最大限に魅力的に見せる方法だろうから。この終わり方がベストととまで言わなくてもベターなのかもしれない。