子供は意外に勝手に育っていく

さらに・大人問題 (講談社文庫)

さらに・大人問題 (講談社文庫)

学校の先生はよく「先生はね、君の将来が心配なんだ」などといいます。この言い方って、かなりスペシャルなことに最近気づきました。(…中略…)職業名を一人称にしてしゃべっている、こんな職業は、ほかにはあまり見当たりません。(…中略…)「漁師はね、これから魚をとりにいくんだよ」とは言いませんし、ぼくが「絵本作家は今、忙しいんだよ」といってもなじみません。

教職が聖職だと言ったのは誰なのだろう。さすがにもう、それは幻想だとみんな気づいているけれど。
kiaoは前々からずっと思っていた、「教える」という行為ははたしてスキルの一つとよべるのだろうか、と。そもそも教えるという行為は、何かを成し遂げた(または成し遂げていく)人の余技にすぎないのではないかと思っている。
スポーツの監督だって、音楽ディレクターだって、大学の教授職だって、もとは第一線で活躍して何らかの業績を残した人が、ということはつまりそこら十把一絡げにはない能力を有した人が、自分の能力を後世にいわば「おすそ分け」する形で残しておこうという行為、それが「教える」ということの本来の意味なのかと思っている。もとから教えることを目的とした生き方ではない。
「私、人にものを教えるのが好きだから」という理由の教職志望の人がかつていたのだけれど、かなりお太い神経をお持ちだなぁ…と思ってしまった(まあ理由なんて実はそれほど大切なものでもないが)。それは、「私は、人にものを教えるほどの立派な業績を残したのだ」と自負しているようなものだし。本人は全くそこらへんには気づいていない(確信犯だったら逆にすごいよ)。
学校の先生になりたいという人全てにケチをつけるわけではない。そういう人がいるというだけの話。ただ、「教える」ということをやたら神聖視するきらいはあるよね。
なんだか教育学というものがあるのらしいけれど。すごいな、それ。動物学みたい。
それに、子供の眼をなめてはいけない。子供が尊敬するのって、たいてい現役で何かを頑張っている人だもん。サッカーだって、選手のファンはたくさんいるけれど、監督のファンなんて子は…かなり渋い趣向だな(笑)。教えたがりって逆にウザがられるよね。教えるのが好きだろうがそうでなかろうが、すごいと思う人に、自然と教わりにいくものだから、子供も、大人も。

だいたい学校といところは、いつから読み書算盤(そろばん)といった技術だけでなく、子どもの人格の形成までが守備範囲だと思い込むようになったのでしょうか。通信簿に「忘れ物が多い」とか「落ち着きがない」なんて書くようになったのは、いつからなんでしょうか。このボタンのかけ違いがいつ始まったのか、今とても気になります。

教師に夢を強く抱く人ほど、自分が学生だったころ先生という人が周りからどういった扱いをされていたかをすっぱり忘れているからね。見事なくらい。生徒に頼られる先生の図、みたいな。あなたそんなとこ見たことあったか?
金八先生だって、鈴木先生だって、あれは物事を極端化して楽しむエンターテイメントだ。メロドラマだ。内容はそういうことなのに、あえてそれを持ち上げて、「わかっている自分」を演出したい人がいるみたいだけれど(こういう人は逆に教職についていない人ほど多い傾向。自分の属していない世界ほど、想像の中で大きくなってしまうというか)。
なにが言いたいかというと、教えることで輝いている自分が好き、みたいな人にろくな人はいない、という話。教えるなんてことは奉仕の精神か仕事に徹するかで、自己形成なんかに使うなよ、という…。