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異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

不条理

不条理(ふじょうり)は、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す。(英)absurd、(仏)absurde、(独)Absurditatの訳。これらはいずれもラテン語のabsurdusを語源とする。このラテン語の意味は「不協和な」(cf. Ciceron, De Oratore, III, 41)。

不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理な行動とは通常の予測を外れた行動であり、不条理な推論とは非論理的な推論である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

カミュの「異邦人」は不条理の小説だという。
主人公のムルソーの行動が特別だとkiaoには思えなかった。理解はできる、…と言い切るのはちょっと言いすぎかな。そもそも人が他人を理解できるなんて保障(その理解が正しいという保証)はどこにもない。ほかの言葉を探すとしたら、共感、かもしれない。
「異邦人」を読んでいなくても、この小説についてまわってくる有名な言説はよく耳にする。主人公がある殺人を犯した理由として「それは太陽のせいだ」と答える場面だ。
最初これを聞いた時は、我々には全く理解できない衝動を持つ主人公をめぐる物語だと思った。つまり、ある種の狂人としての人としての。人間は理解しあえるという前提を打ち壊す、ディストラクションノベル。だが、違った。

これはムルソーの諦観の叫びだ。結局お前らは自分という器が許容するもの以外に価値判断基準を設けられない、ディスコミュニケートな生き物だったんだという。

陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑い転げたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」
(…中略…)
「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺害したことで告発されたのでしょうか」

上記引用文の上は検察の、下は弁護士の言葉だ。検察はムルソーがある男を殺したという罪よりも、母の死によって涙を流さない人間、翌日に女と情事を働いたという出来事を持ち出して、(彼らにとっては)非人道的な、嫌悪にちかい情感を喚起させ、ムルソーの罪を肥大化させる。
それは怖れである。そして人々はその怖れを排除しようとする。
その怖れはどこから発生するのか。自分の体験と照らし合わせて、ではない。そんな一度か二度しか体験しえないことを引き合いに出されても困るし、なによりそれは自分の体験こそがこの世の出来事の全基軸になるという主張になってしまう。何たる覇者的思考。
ではどこにあたるのか。それは、世間で一般とされている考え、いわば(明文化されていない)常識、ステレオタイプに照らし合わせてということになる。ここから外れた人は、人ではない、我々とは異質な人間だ、という烙印を押される。
しかし、これは少し考えてみれば大した根拠を持たないものだということがわかる。その常識という名のモデルも、個人が持つものの重なり合った部分でしかあり得ないのだし、そう考えれば、その常識を用いても、種々雑多な形・大きさ・深さを持ち合わせる「個人」というものの全てを網羅(カバー)することは到底できないことも自ずと理解できるはずだ。
だが人は、そんな「常識」に往々にして平伏してしまう。自分というたった一人の「個人」よりも、少なくとも何人かの「個人」がより合わさった「常識」というものに。実はそこにあるのは、単純な数の論理。多いほうが勝ち。
そんな単純な論理に身を委ねると、その依存度に比例して失くしていくものがある。それは思考すること。自分以外は、自分と違う「個人」というものを持っていることを。そして忘れる。「常識」というものが人がより合わさった時に発生する幻想にしか過ぎないことを。

TVをほとんど見ないkiaoが、これまためったに見ない某番組(毎週新婚夫婦をスタジオに招いてトークをするもの)でたまたま見たある夫婦を思い出す。
その奥さんのほうは、一見ぶっ飛んだ人かと思いきや、病気で亡くなった母親に花嫁衣装を見せてあげられなかったことをひどく残念に思っていた。母親が余命1年と知らされたとき、結婚式を早めに挙げようかと思ったりもしたが、それをしてしまうと母親が死んでしまうことを認めてしまうような気がしてできなかったという。司会者の落語家は「それはそうかもしれんが……なんかうまいことできなかったんかなぁ〜」と言っていたが、kiaoにはその気持ちが痛いほどわかる。

kiaoも数年前に父親を亡くしている。父親は癌で、最初は「そうはいっても治るだろう」と思っていたが、病状は少しずつ悪くなっていって、見た目にもやせ細っていくのがわかった。けっこう長い期間入退院を繰り返しながら、それでもたまにkioaが実家に帰れば顔を合わせて会話をしていた。
だがある日、もうそんなにもたないかもしれないという一報を受けた。それを聞いた後日、父親と電話で話をしたが(結局それが最後の会話となってしまった)、kiaoは極めていつもと変わらないトーンで話をした。悲壮感なんて出したくなかった。
そんなことをしてしまったら、父親が死んでしまうことを容認してしまうことになるから。そう思った。
たとえ本人でさえそれを認めてしまっても、kiaoだけは認めてあげたくなかった。世界の誰も父親の死を肯定してしまっても、せめて自分だけは父親の生を信じてあげたかった。
周りからしたら、kiaoはその時も全く普段と変わらない生活を送っていたように見えただろう。だから、kiaoがもしムルソーと同じ裁判を受けたら、また同じように「異邦人」として扱われてしまうのかもしれない。「しかり、重罪人のこころをもって、父を埋葬したがゆえに、私はあの男を弾劾するのです」と。