闘え!何を!人生を!

二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))

二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))

「あんたに気持ちを感じるんだ。粋な、なにかと全力で闘おうっていう、気持ちを――あんた、強い(原文傍点部)。あたしにはそれに護られてる。店長(オーナー)があたしの帝釈天なんだ。ああ、なにを馬鹿なことをあたしはヌカしてるの?いい、店長(オーナー)?あんたがあたしを救うの。救ってるの。あたしはあんたがいるから阿呆な世間とバトルできるの。お店(ここ)だけをあたしのリングにしてさ」
対世界。フォートレスは僕のものだけではない。
彼女も橋を焼いて生きてきた。

村上春樹中国行きのスロウ・ボート」へのトリビュート作品(らしい)。だが、そっちのほうは読んだことなし。

この文章は僕自身のエクソダス――「出トウキョウ記」であり、その失敗の記録だ。

本書の主人公は、再三の挑戦にもかかわらず、東京を脱出することに失敗している。だがここで言う脱出とは、物理的な脱出を必ずしも意味してはいない。
たしかに舞台は東京で、その外へ踏み出すことは最後までできないでいる。しかしそれは、「そんなものちょっとJR京浜東北線にでも乗って、うたた寝でもしていればあっという間じゃん」とかいう問題ではない、少なくともここでは。
ここで言う「東京」とは、「世間」のメタファーである、とkiaoは思う。つまりここでいう脱出とは自分という存在を護ること、青い反逆の精神そのものなのだ。なぜ「世間」に反逆しなければならないのか?それは「世間」というものが当たり前のように「僕(もしくは私)」を躊躇なく押し殺そうとする存在であり、「僕(もしくは私)」を殺されたくなければ、そう、闘わなければならないからだ。
闘うためには、フィールドを確保しなければならない。少なくとも「世間」とタイマンで殴り合える足場を。そのために、まずは「世間」という檻の中から「脱出」する必要がある。それがここで言う「出トウキョウ」なのだ。
しかし何度も失敗する脱出。それならば、東京自身の中にその足場を創ろうとすることも考えとしては当然あり得る。

結論:東京トロイアの木馬計画。
東京からの逃走が果たせないのなら、東京の内側に”非・東京”を構築すればいいさ。僕が。それが東京に対しての僕の 木馬(原文傍点部)だ。
これが僕の奇計だ。

また、作中には主人公と関係を持つ3人の女性が登場するが、そのいずれも結果的に東京を乗り越え(てく)る。それらは東京からの帰還でもあり、東京への脱出でもあり、東京からの脱出でもある。これらが示すのは、「トウキョウ」という「世間」に対して、全員が全員闘いを挑むということではない、ということ。それから逃げることもできるし、それが自分の欲しい世界を提供してくれていることもあるし、そこから別の「世間」に飛び立つことさえもできる。
要するに「世間」は一つではない。だが、必ずどこかの「世間」には属することになる。主人公の僕にとって、今自分がいるそこが「東京」であって、それを「トウキョウ」と呼んでいたのに過ぎない。ただ、僕は選択をしたのだ。その「トウキョウ」と闘うことを。闘い続けることを。