屠殺場5号

トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間に好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたしでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。

時間の概念。人はいつから自分が生きた(生きられる)期間を超えた時を想像できるようになったのだろうか。
自分が生まれる前にも、死んだ後も、この世界は相も変わらず、同じように、連綿と時を紡ぎ続ける。しかし、それはあくまでもそうである「らしい」ということを、誰かから、どこからか聞いたにすぎない。自分で実際に体験したわけではない。
そう考えてみると、単純に当たり前とされてきたことのほとんどは誰かから聞いた話にすぎない。この世界がそういう風に作られているという認識をする。真実とは、自分が認識したものの別称。
体験からくる認識。昨日の夜にて寝て、今日の朝に目覚め今日の夜に眠り、明日の朝にまた目覚める。睡眠という断絶を挿みながら、昨日から今日、今日から明日へに向かって生は進んでゆく。
死の概念。人が「死」と呼ぶものは「明日目覚めない」ということだ。人が眠りにつくのは、明日にはまた目覚めるだろうということを信じているから。保障はない。だが高確率でそうなることを信用して、また明日の朝へと眠りというジャンプを起こす。

あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在し続けるのである。
(…中略…)
彼ら(引用者注:トラルファマドール星人)のとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。

ジョルジュ・バタイユは言う。「すなわち、ひとつの目的とは、つねに、水のなかの魚のように 時間の流れの中に(原文傍点部)希望もなく投げ入れられている、宇宙の動きの中の任意の一点でしかないのだ。 それというのも、この場合、ほかならぬ人間の生が問題だからである。(原文傍点部)」「すべて人類(人間性)とは、ひとつの目的という抗いがたい力に、現時点を従属させようとする傾向をもっている」*1
生きるということは、未来の中にあるある一点に向かって進む行為。しかしトラルファマドール星人は<彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままに><過去、現在、未来>へと移動し、主人公のビリー・ピルグリムもその力を授かって、自分の生を漂う。
時間の流れから解放された生。しかし時間の流れから解放されたそれは、はたして生と呼ぶことができるのだろうか。もし生きるということをエネルギーの塊と捉えることができるのなら、”そういうものだ”が持つ諦観とどこか虚しい響きは、時間から解放されたが故に失ってしまったその熱量ためなのかもしれない。