鶏口となるも牛後と成るなかれともかぎらない

失われた男 (扶桑社ミステリー)

失われた男 (扶桑社ミステリー)

半分意識を失ったままの彼女の体にシーツをかぶせた。酒瓶の栓を抜き、シーツにウィスキーをふりかけた。マッチ棒を何本かとり、すった。
「いつも言ってたよな」おれは言った。「忘れたか、エレン? 体じゅう焼けるようだって……」
そして彼女の上に燃えるマッチを落とした。

時々、無性に安い酒を呑みたくなることがある。方向香る葡萄酒では満たすことができない、喉に落とし込んだだけで必要以上に胃を熱く締め付ける、琥珀色の蒸留酒を。人の生きる道というのが、きれいなものだけで成り立っているのではなく、汚いものも抱き込んで、すべてを飲み込んで広がってゆく濁流のようなものだとわかっているからこそ、時にはそんな酷いものを呑みこんで、自分が生きていることを確認せずにはいなくなるのだ。
…誰?上の人(笑)そんなことはともかく、トンプソン初読みだけれど…素晴らしい。一気に惚れ込んだ。解説の言葉を借りるならトンプソンの小説を語るのは、むなしい。なんだか書き割りのセットみたいなんだ。それも松竹新喜劇みたいな安手の大衆劇さ。というように、要するに古ぼけた安っぽい夢も希望もとんと持ち合わせていない、まるで安酒をかっくらって休日を酩酊状態で過ごす楽しみのためだけに週に5日ぼんやりと金を稼いで、呑んで、稼いで、呑んで……を繰り返す暮しみたいな、どうしようもない、濁々とした、生きてるんだか死んでるだかすらもあやしい、外へと開けない(が自覚していない)このクソ田舎のヤツらの中で、おれはそいつらを心の中では小馬鹿にしながら、うまい具合にいい気にさせて、適度に暮らしている…というのが主人公の片田舎新聞記者クリントン・ブラウン。だが実は、彼にはどうしても拭うことができないあることを抱えていて…という感じ。
一言でいうなら「愛すべきB級作品」とでもいうべきか。これこそ、「BLACK LAGOON」がモチーフにした「かっこよい安っぽさ」なのではないか。
解説で、ジェフリー・オブライエンの「安物雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキーという文章を足場に敷き、ドストエフスキーの「賭博者」なんてトンプソンが代筆したみたいだと嘯き、「悪霊」と「おれの中の殺し屋」との近似性を想起したりする。ではいったい、「失われた男」はドストエフスキーの何にあたるのか?
実は解説を読む前から、早々にkiaoも気づいていた。これはトンプソン版「罪と罰」だ。
罪と罰」の主人公ラスコーリニコフが手に入れようとして手に入れられなかったもの、それをこの「失われた男」の主人公ブラウンは持っているとも言える。だがはたして、ブラウンはラスコーリニコフが焦がれていた偉人というものと同一の存在なのか?
ラスコーリニコフが神を信じていたかどうかは忘れたが、この物語の世界にもし神という存在がいたのなら、その神はブラウンにラストで何とも残酷な仕打ちを与える。それはただでさえ「失われた男」であるブラウンから、彼を唯一支えていたあるものまでも奪い去ってしまったのだ。「失われた男」がさらに失ってしまったら……その答えはここには書いてはいない。そんなことまで面倒見てらんねぇぜ、と残酷な神がせせら笑っている。そんな気がしたのは、やはり気のせいだろうか。