犬と少女

GUNSLINGER GIRL 9 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 9 (電撃コミックス)

アンジェリーナはとうの昔に死んだはずだった 父親の車にひかれてな!
アンジェリカは亡霊(ファンタズマ)だ! 亡霊に人生など存在しない!

人は生まれることを選択することはできない。目覚めた時にはすでにこの世に誕生した後だ。「産んでくれと頼んだ覚えはない!!」という嘆きも、この世に生を受けた後には虚しく響くだけ。運命の始まりでさえ、自分の意思の外側で決定された出来事なのだというこの嘆きを。
義体の少女たちも、自分たちの意思の外側にある権力によって誕生させられた生命だ。ただそれが所謂普通の人の誕生と違うのは、ある目的を持って造られた、意図的な存在であるということ。
担当官と義体の少女の関係を読み解くとき、彼ら自身はそれを「兄妹(フラテッロ)」と呼ぶが、その関係性はむしろ主人と飼い犬の関係にちかい。義体の少女の純朴で従順な態度は、飼い犬が主人に尽くすそれと酷似している*1。そのためか、アンジェリカがかつて飼っていたのが猫ではなく「犬」だというのは、皮肉にもその関係性を示唆していうように見えてしまう。
だから、義体の少女の運命を悲壮に思うのは、例えば盲導犬とし生きることを運命づけられて産まれた犬の人生(犬生?)を悲壮に思うのと変わらない。そのために生まれてきた存在なのだから。その目的がなければ、彼ら(彼女ら)は誕生することすらない*2。肯定とか否定とか、そういった単純な二元論で語れそうな問題とはちょっと違うように思える。
「そうは言っても、いたいけな彼女らを愛おしく思うのはいけないことなの?機械のように扱えというの?」という問いに対しては、「そんなことはない。かわいがってあげればいいんじゃないの?」と答えるしかない。盲導犬に愛を注いではいけない、なんてことにはならないのと一緒である。
マルコーは自分たちが義体の少女たちにしていることに対し、妥協点を見つけられない。だから彼女たちと常にある程度(心の)距離を保ち続けるように意識してきた。ジャンは自分の復讐のための道具として割り切っている(ように見える)。ジョゼは、それでも自分たちの行っていることが他の人を救うことにもなっていると是認できる部分を感じようとしている。
個人的には、ジャンの態度が一番わかる気がする。自分たちのしていることに対して自覚的で、誤魔化しがない。逆にあまり共感を持てないのはジョゼだ。義体の存在が人の役に立つかどうかはともかく、「義体の少女を誕生させる」ということその行為自体については、もう問題としていない*3。彼のやさしい態度の理由は、そういった禁忌にまで思考が及んでいないからとしか、kiaoには思えてならない。
ちなみにkiaoにとっては、アレッサンドロはペットを溺愛しすぎてペットに溺れてしまった頭の軽いにーちゃんにしか思えません。第45話が大事な話のはずなのにそうは見えないのは、アレッサンドロとペトルーシュカで締めたためだということで、あながち間違いではないはず*4。そうは言っても、最後に「パスタの国」の話を持っていくあたりは、さすがにうまいな、と。

※なぜ義体が子ども*5でなくてはならないのかという問題は、一応説明がつけられるようになった(ムリくりだが)。もし自分が(業務中でもなんでもいいが)突然命を落としてしまい、政府が自分の躰だけを使用し、過去の記憶を全て抹消し、別人(義体)として蘇らせて任務を遂行させるようになったらイヤでしょ。オレを勝手に弄って無理やり動かさせるな、と。だから義体の対象となるのは、自分たちのような大人ではなく、子どもにすることで、義体に対する不快感を起こさせないようにしている、と説明できる。…利己的であることには変わりはないけれど。

*1:犬と人間を一緒にするなって?それはちょっと失礼なんじゃないの?犬に対して。

*2:義体の少女らが、死にかけの運命からの復活ではなく、新たな存在の誕生と捉えるのは、過去の記憶の一切を断ち切られて生まれてくるからだ

*3:周りの人も多少そうだけれど、ジョゼはその度合いが強い

*4:なんだその締め方!?とちょっとコケそうになったよ。

*5:なぜ少年ではなく少女なのかということは、話がややこしくなるので省略