綿菓子に似ているね、この本は

これが、つまり心のゆらぎに起因した人間の精神活動の一環といえるものだ。多くの場合において、本人は、外的な要因によって偶然にも影響を受けた、突発的な環境の変化に自分は遭遇したのだ、と認識する傾向にある。それは客観的に見れば明らかに誤りであろう。ただ、人はそう認識して自分を守るのである。自分は決して悪くない。人のせいだ、運が悪かったのだ。神様にすべての責任を転嫁して、身も心も軽くなる。人間の自由と進化は、こうして心の安定と引き換えに失われていく。

森博嗣「ぶるぶる人形にうってつけの夜(「今夜はパラシュート博物館へ」収録)」

人が幸せかどうかというのは、本人がそう思っているかどうかである、とよく言われる。だからあなたがどんなにお節介を焼いてあげても、本人がいいといえばいいのだから、他人のことなんてほっておきなさい、と。基本的にはそれで間違いないと思う。結局は個人の問題だ。だが、はたして本当にそうと言い切れるのだろうか?
例えばカルト教団にハマってしまい、自身の財産をすべて寄付し、身も心も信仰に捧げてしまっている人がいるとする。信仰は個人の自由だ。それでいい。人に迷惑をかけない(知り合いなどに過度の勧誘を行わない、テロ行為的な活動を企てない)ようにしていれば問題はない。…それがあかの他人ならば。
だがそれが自分の身内だったとする*1。たしかに、知り合いなどに過度の勧誘を行わないし、その教団はテロ行為的な活動を企てない(らしい)としよう。それで、「じゃあ信仰は個人の自由だから、ほっておきましょう」となるだろうか。
…たぶん、ならないと思う。少なくても、kiaoだったら説得を試みて、場合によっては辞めさせようとするかもしれない。なぜなら、それは搾取をされているからだ。餌にされているからだ。自分の意志でそれをしているように思わされているからだ。
人が幸せであるということは、自由であるということ。自由とは、独立していること。独立しているということは、依存しないということだ。と、誰かが言っていた。
「じゃあ、給料のために会社に滅私奉公して、死ぬほど働いているのに雀の涙ほどしか給料もらっていないオレはなんなんだ。搾取されているじゃん。あんたが身内だったら、オレが搾取されている状態を見て、辞めさせようとするのかい?」なんて屁理屈が飛んでくる気がしなくもないが、そんなん知るかっと一蹴したいけれど、あえて答えると、「辞めさせようとは思いません(別に辞めてもいいけど)」。なぜなら、「オレは搾取されているのかも?」と疑う心、考える力がまだあるから(たとえその考えが、彼の思い上がりからきたものであったとしても)。
人の幸せの定義は、kiaoにもこれといって断言できるものがないのが正直なところ。だが、人が不幸であるということの必要条件の一つはわかっているつもり。それは、考える力を失うこと(奪い取られること)ではないのか。
なれるものなら幸せになりたい。何もかもから自由でいたい。でもそれってすごく難しい。生きていくためにはお金が必要で、労働をもって賃金を得なければならない。自分の能力は無制限ではないので、やりたいことではなく、やれることをしなければならない。でも金銭だけで心は満たされない。したいことはしたい。誰からも愛されたい。だけど誰もが愛してくれるとは限らない。需要と供給は常に不均衡(アンバランス)。アダム・スミスが言ったように、時間がたてば均衡点で安定するなんて、これまで生きてきて目の当たりにしたことは一度たりともあったことはない。希望と現実の釣り合いを図り続ける、やじろべえのように。不安定に揺れ動く。常に。不器用に。
ならばせめて少しでも不幸であることから遠くにいたい。そのために、知りたいことがもっともっとある。考える力がほしい。kiaoにとって本を読むということは、それを得ることでもある。知識を得るに越したことはないが、それだけではない。それだけでないものを得ることができるのが、「物語」がもつ力なのではないのだろうか。そんなことを思いつつ、今年もあと二週間とすこし。

*1:というのは、ニュースで聞いた不幸な事件の被害者のことを耳にしても、ご飯も喉を通らないほど落ち込む気分に人はならないのと一緒。人の関心には限度がある。