真実は教えてもらうことができない

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)

「私は君に対してできる限り正直に話そうと思う」と男が言った。どことなく公式文章を直訳したようなしゃべり方だった。語句の選び方と文法は正確だが、ことばに表情が欠けていた。
「しかし正直に話すことと真実を話すことはまた別の問題だ。正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。まず最初に正直さが現れ、最後には真実が現れる。その時間的な差異は船の規模に正比例する。巨大な事物の真実は現れにくい。我々が生涯を終えた後になってやっと現れるということもある。だからもし私が君に真実を示さなかったとしても、それは私の責任でも君の責任でもない」
答えようもないので、僕は黙っていた。男は沈黙を確認してから話をつづけた。

年末年始のゆったりとした、どこかもの寂しい感じの空気感が好き。世界中の生きるエネルギーがいつもより少しだけおとなしくなった気がして。そんなときに読みたいのが村上春樹
実は「ダンス・ダンス・ダンス」のほうを先に読んでいたのだが、これを読んでいるときはそんなことすっかり忘れていた。まあ、とくに話の繋がりがあるわけではないので、無問題。
羊をめぐる冒険を読んでいて思ったのが、これは(広義の)ミステリといってもいいんじゃない?まあ、読んでて面白ければ、ジャンルなんてなんでもいいんだけどね。ただその謎な部分の吸引力が強いから、物語の先が気になり次へ次へと読みたくなる推進力にはなっていると思う。
あ、今思ったんだけどどこかのブランドが「村上春樹」って名前の香水を造れば売れるんじゃない?効能はご想像の通りです(笑)でもそれじゃあ、青年向け雑誌の巻末広告商品と変わらないかぁ。だめだな。
羊男の造形がいいね。ファンタジックな存在なんだけど、見た目着ぐるみ着たオッサンってのが。ちょっとだけハズすというか。


過去と現在と未来について

(…略…)わたしがイき、南がイくとき、作者も読者も肉体的にはイったりはしないが、イくというイメージは持ちはする。そのイメージと物語の中の私たちのめくるめく絶頂感とどれほどの差があるんだろう?イっているのはほんのしばらくで、そのしばらくが過ぎ去ればその絶頂は既に記憶だ。イメージと変わらない。(…以下略…)

舞城王太郎「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる」

我々は偶然の大地をあてもなく彷徨っているということもできる。ちょうどある種の植物の羽のついた種子が気紛れな春の風に運ばれるのと同じように。
しかしそれと同時に偶然性なんてそもそも存在しないと言うこともできる。もう起こってしまったことは明確に起こってしまったことであり、まだ起こっていないことはまだ明確に起こっていないことである、と。つまり我々は背後の「全て」と眼前の「ゼロ」にはさまれた瞬間的な存在であり、そこには偶然もなければ可能性もない、ということになる。
しかし実際にはそのふたつの見解のあいだにたいした違いはない。それは(大方の対立する見解がそうであるように)ふたつの違った名前で呼ばれる同一の料理のようなものである。

村上春樹羊をめぐる冒険