死をもって完遂するということもない。なぜなら誰も死んだことある人にそれを聞いたことがないのだから。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

「だからさ。悟ることが最終目的ではないと云う主張だよ。悟りとか最終解脱とか云うものは目的――つまり修行の終着点ではあり得ないのだ」

「目的」と「手段」というのは、近代科学がもたらした概念なのか?と考えてみたが、いや、そんなことはねーだろと思いなおす。モノを二元的に扱うという観点からして、そうかと思ったのだが、それではことが単純すぎる。言葉にした瞬間にそれはふっと消えていってしまうものというふうに書いてあるのだから、ここで何万言を費やしても禅の正体なんて(ほんの一部でも)解き明かせないし、そんなつもりもないし、そもそもできないし…。
で、なんだっけ?あ、そうそう。じゃあ禅のアウトラインでもなぞろうってしたときにできることといえば、「禅とは何か」は言うことはできないけれど、「禅でないものは何か」ということはできるかもしれない。その禅以外のモノを塗りつぶしていって、ぼんやりと残ったこれがなんとなく「禅」っていうものといえるんじゃないの?ってのがこの「鉄鼠の檻」(この書き方は、ニーチェは「超人になれとは言っているが、「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていませんBY内田樹をパクッています)。

「呪(しゅ)はね、脳が仕掛ける罠だ。だから遍く脳の中だけで有効だ。そして人為的な呪――呪術は、言葉や呪物を用いずしては絶対に成り立たない。しかし、禅の半分は脳の外側にあるのだ。だから――」

物事をあるがままに受け入れること、意味を持たせないこと。意味を持たせるということは言葉による規定行為であるため、その瞬間にそのモノの本質から離れてしまうということだろう。レヴィナスが言ってた3つの世界「内的世界」「外的世界」「モノの世界」*1の内、意識というは「内的世界」「外的世界」までに留まるので、手段も目的も意識も「モノの世界」と同化するために不要となる、と言い換えることもできるのか。「内的世界」「外的世界」までは脳の中の世界であり、「モノの世界」こそが脳の外側にある「禅の半分」に当たる部分、ということを。

「(…中略…)病の者は健康を意識する。しかし本当に健康な者は健康を意識することはないだろう。健康と云う概念が失われている状態が真の健康なんだね。自己に対してもそれは同じで、自分とは何か世界とは何かと問うてるうちは本当ではない(…以下略…)」

「(…中略…)解っていても、解った気になった途端にそれは解っていないのと同じことになってしまう、つまりは解った気になると云うのは、解ったこと自体を自分自身に説明している状態な訳です。(…以下略…)」

これは、内田樹がバルトの「テクスト理論」の説明として挙げた例示と似ている*2「作者たちは必ずしも「自分が何を書いているのか」ということをはっきりと理解しているわけではない。作者が自分の作品を語るとき、すでに彼は彼の作品の批評者であり、作者としての彼ではない(大意)」ということと。
つまり本当に分かっているときには、その分かっていることを意識していない。分かったと意識したときは、その時を後から言葉でもって意味付けしているだけにすぎない。だから意味付けしている状態では、それは真にあるべき状態ではないということだ。
禅は、悟るために修行をするのではない。修行それ自体が禅であり、それは悟りを得ても終わりるものではない。悟りを経た後にまた悟ることもある。では、悟りとは何か?それは脳を無視した世界認識をすると云うことに等しい――と論理がぶっとんだけど、そこに至るまでの過程は本文を参照されたしと言うほかはない。

と禅が主題となる本作だけど、ある人間の数奇な運命を垣間見るという別の読み方もできる、
とある事件を切欠に全てを失ってしまって、だからといって死ぬわけにもいかず、さりとて一からやり直すには人生というリミットが十分もない、そんな人生の意味も目的も手段も失ってしまった人間が何の因果か遭遇してしまった事件として。

*1:ものすごいうろ覚え

*2:「寝ながら学べる構造主義」より