関係性の中で生きるわたし
- 作者: 戸田誠二
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2008/02
- メディア: コミック
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「――なぁ。なんで?
なんで急にボクシングなの?」
人は関係性の中で生きている。
この本に登場する各お話の主人公達は、20代〜30代*1といった社会とのコミットを持つ人々である。
社会に対して非力だし、窮屈ではあるが、限りない未来の選択肢を夢見ることのできる10代という時代を過ぎて、ある程度自分の生き方が定まってきた世代。自分の力で生きることができる。自分以外のものを養うことができるほどの、社会的な力をもてる。社会的な力を持つ代わりに受け入れたのは、日常という名の退屈だが確固たる安定を約束させるもの。<なぜなら、大人というのは退屈と折り合うすべを見つけた(あるいは自分が退屈していることすら忘れてしまった)人間だからだ。>*2
自分って一体何なの?今の自分は、本当の自分とは違うのではないか?どこかに本当の自分になれる場所があるんじゃないのか?
それが10代の人間における最も重要なテーマだった。
世界に旅立ちさえすれば本当の自分が見つかるかもしれない、という幻想は、いま思えば「世界」と自己を直結させる「セカイ系」の発想にきわめて近い。
だがいずれ気づかされる。自分自身の力で生きていかなくてはならない時、自分が誰であるかということは自分が決めるのではない、自分以外の人間が決めるのだということを。未来の意味も変わる。それは根拠のない理想像を夢想するものではなく、現実を壊さないように、かつ、安定を維持するための何十もの保険を仕掛けておくための計画に。
石黒正数の「ネムルバカ」。バンド少女の大学3回生である"先輩"は、レコード会社の人間や音楽プロデューサの言うことを聞くことで一躍有名ミュージシャン(本人の意向を伴わない)になった。だが最後にあることをしでかしてしまう。
このラストまでの"先輩"の行動や、目的のある生き方とか、「駄サイクル」理論やその他「ネムルバカ」の作品全体にいえることは、ここに出てくる登場人物たちは誰かとのぶつかりあいによって自分の存在が大きく変化したりはしないということだ*3。"先輩"の行動は結局は自分のためだけのものだし、目的のある生き方や「駄サイクル」理論は単なる思弁だったりする。大学生という、ちょっとだけ社会にコミットしていながらも、人との関係性からまだ自分を守ることができる最後の時間。
だがこの「美咲ヶ丘ite」に存在する主人公達は、自分自身の力で生きていくことが要求され、社会という「人の関係性」の中にギッチリと組み込まれている。ここではない世界への旅立ちなんてものとも無縁だ(それは観念的にも現実的にも)。
人は安定を欲した。そのために退屈とも折り合いをつけた。だが、それは本当なのか?
自分の本当に欲しいものが何なのか分からなかっただけなのではないのか?『安全』という、これなら私に想像も獲得することもできるというものを、これこそ本当に欲しかったものだと必死に思いこもうとしているだけなのではないのか?
「あの人分かってねーな
やりたいことのある人とやりたいことがない人の間に
何かしたいけど何が出来るのか分からない人ってカテゴリーがあって
8割方そこに属していると思うんだがね」
人はここではないどこかになんて行けない。もし行けたとしても、たいして自分なんて変わらないかもしれない。だが、人は誰かと常に関わっている。人の間で生きることによって、私というものは変わってゆくはずだ。それが望んだものかそうでないかはわからないが。
*1:一人だけ例外がいるが
*2:柳下毅一郎「シネマハント ハリウッドがつまらなくなった101の理由」収録「トレインスポッティング」評論より
*3:これは批判ではない。作品の方向性を考えた場合、狙いとしてはむしろ正しいと思う。