『団欒』のエピソードは結構好き。だけど、ストーリーと特に関係はないのね。

ルート225 (シリウスKC)

ルート225 (シリウスKC)

そして冒頭のシーンに戻るわけです

志村貴子、初の原作つきマンガ*1
南さん家の次女がいる…。と思った。主人公の田中エリコ。髪を二つに分けた見た目だけじゃなくて、なんとなく雰囲気が。でも底抜けのおバカさんな感じはなし。性格的には、二鳥くんのお姉さんに結構ちかい。でも、ガサツな横暴さはそんなにない(多少はある)。弟のダイゴは、絵に描いたような(って絵に描いているんだけど)弟キャラ。ちょっぴり気弱な男の子。
最初のほうは、志村貴子の作品にしては説明が多めだな〜と思った。やはり小説という原作があるからなのだろうか。わかりやすいっちゃわかりやすい。でも、それも最初のほうぐらいかな。まあ、志村貴子のエッセンスは多めにあるわけで。
あー、大久保さんが「青い花」のぽんちゃんちゃんにちょっと似てるかも…と思って「青い花」を見返したら、あんま似てなかった…。マッチョこと松本君を見て「HUNTER×HUNTER」のレイザーと「愛がなくても喰ってゆけます。」のF山さんを思い出した…けど何この取り合わせ(笑)
そういえば、志村貴子の作品で太めの人ってそんなにでてこない(かったはず)なんで、マッチョ*2の存在はちょっと貴重。そうそう、体格といえば、志村貴子の描く女の子の骨ばったところや関節とかが、なんか気になるようになってきた今日この頃。ていうか好き。エリコのTシャツから出ている腕の肘関節とか、「放浪息子」7巻で高槻くんがバスケットボールを横から両手で挟むように持っている、肘から手までのラインと手の甲のあたりなんか。なんだこりゃ、…何フェチ!?

全体の統一感や脈絡など気にせず、ただその瞬間にもっともインパクトを与えられる視覚的手法を選ぶ。それが漫画的という意味である(より具体的にいえば週刊連載の少年漫画のようだ)。

柳下毅一郎「シネマハント ハリウッドがつまらなくなった101の理由」より

もちろん<全体の統一感や脈絡など>を考慮した上なのだけれど、志村貴子っていうのは一話〃の冒頭部分にかなり気を使っているマンガ家だと思う。物語の導入部という形式が持つ力(インパクト)を意識しているからこそ、その部分に印象的なシーンを持ってくることにより、読者を物語世界にあっという間に引き込んでしまう。
冒頭のシーンを経て、本篇は時系列的にそのちょっと前から進んだりするので、読んでる人は「あれ、これはいつのことをいってるんだ?」と軽く戸惑ったりする。その気持ちは少しわかる。それはこの「ルート225」にも用いられている。

最初の問いには私なりの答えを先に挙げましょう。物語が必要か否か、は不毛なイエス・オア・ノーです――問われるべきは、物語はどの程度必要とされるか、であり、それは、どのような記述が想定されるか次第です。

佐藤亜紀「小説のストラテジー」より

どこかのマンガ家が、まず描きたいシーンが浮かびあがって、それに引っ張られるようにストーリーなどが出来上がってくる、といったようなことを言っていた記憶がある。ストーリーと描写、それはどちらが主でどちらが従か、といった線引きはそれほど明確なものではないのかもしれない。志村貴子の作品は、一つ一つのエピソードが紡ぎあげられていって、最後に振り返ったら全体としてのお話ができていた、といったタイプだと思う。「ルート225」という、原作があることにより始まりと終わりが予め用意されていた作品において、それまでのスタイルと少し違う形で作られたこの物語。終わり方も、いつもどおりのようでいて、ちょっとだけいつもより『終わり』がはっきりしていたような気がする。

特に印象に残ったのは、コーヒーを上から落とす縦コマの使い方と、すぐ後のまるまる1P使った話の落とし方。このネームの切り方にはちょっと惚れた。


追記
どうやらラストは原作とちょっと違うらしい。この終わり方、かなりいいよね。

*1:星新一のやつは除く

*2:本文でも言っているように、体格的には筋肉質なのではなく、ちょっと太めな感じの人。