チェンジング・セイムネス

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

わりと有名な「100年カレンダー」の話。ことの真偽はさておき、やっぱり「ああ、おれもこの地上から跡形もなく消え去る日は、いつかは知らないけど、でも確実にやってくるんだよなぁ」という現実を突きつけられると、そりゃぁ発狂したくもなるわ。
100年カレンダーを見て思う気持ちと、この『百年の孤独』を読み終わった後の気持ちとは、どこか通じるものがあるんじゃないか、と思う。

人生っていつのまにか始まっていたマラソンみたい。パァン!!とピストルが鳴って、「あれ、なに!?走んの?マジで!?ちょ、どこ、ゴールは?やべ、遅れる!!とりあえずついて行かなきゃ!!」てな感じで走り出したはいいけど、やっぱりどこが目的地なのかわからないままで、でも休んじゃうとみんなどんどん先に行っちゃうし、で、なんとなく走り方もペース配分もコツが掴めてくるようになってくると、周りを見る余裕がうまれてきて、見るとところどころ体力が尽きてリタイヤする人が出てくるのと、後方から新しい奴らの姿も見えてきて、そいつらにこのよく分からないなりにも自分が掴んできた知識とコツを教えてやったりなんかして、ガンバレーって見送ってやると、ああ、やべ、なんかもう足動かねえや、パタってぶっ倒れちゃう感じ。

アウレリャノ・ブエンディア大佐が飽きもせずに金の小魚の細工を繰り返していたわけが、やっとのみ込めた。何年も前に悟りを開いていたら、と彼女は悔やんだ。そのころだったら、記憶をきよめ、新しい光のもとでこの世を見なおし、夕暮れのピエトロ・クレスピのラヴェンダーの香りを身震いせずに思い出し、さらに憎悪や愛からではなく孤独から生まれた、はかりしれない憐憫によって、レベーカを悲惨な泥沼から救えたにちがいなかった。(…中略…)しかし、このころの彼女は運命については深いあきらめの境地に達していたので、もはや取り返しはつかないと知っても心を乱されはしなかった。彼女のたったひとつの願いは経かたびらを仕上げることだった。

近親と外部の血を何代にも交わらせて生きてきたブエンディアーノ一族。その一族の運命と寄り添うように盛衰の道を辿ったマコンドという村。その一族と村の生誕から隆盛、そして消滅までを描いた百年の物語

愛が哀しみを救うんじゃない。哀しいもの、それを愛と呼ぶんだ。

ブエンディアーノの一族は、数世代のあいだに、子に親の(もしくは祖父母・叔父叔母の)名前を何度となくつけていった。だから、同じような名前が何人もいる。でも、読んでいてもそれが誰なのか決して見失わないから不思議だ。

彼らは同じ親から生まれても、同じ近親の名前を持っていても、決して同じ運命を辿らない。しかしそれと同時に、違う生き方をしているように見えても、どこか同じ血の運命を感じさせる。変わっていく同じもの。「チェンジング・セイムネス」。

ギルロイは、この音楽の「黒さ」をもたらす核となる概念を、黒人の評論家であるリロイ・ジョーンズの言葉を使って「変わっていく同じもの(チェンジング・セイムネス)」という言い方で表しています。それは、不動のアイデンティティを示す「変わらない同じもの」とは異なり、たえず異種混合を繰り返し、移動や変容をしながら現れるダイナミズムです。それは、情動的な、あるいは身体的な記憶に根ざしたものであって、黒人としての経験や記憶がさまざまな形で編み込まれた領域なのです。*1

毛利嘉孝「ポピュラー音楽と資本主義」より


たった百年のうちに、今この地上に生きている人間のほとんどがこの世から姿を消してしまうということは、まぎれもない事実であり、真実だ。だが、恐れてはいけない。私たちはいつか消えるために、今生きているのだから。

*1:また、ここで挙げられているギルロイの論考のタイトルが『どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだ』ってのは、なんかスッゲーかっこいいんだけど。舞城とか使いそう。