これはいい枕だ

本の本―書評集1994‐2007

本の本―書評集1994‐2007

厚い!!なにこの殺人的に分厚い本は!?

と、書店で最初に見かけたときに思ったもんだ。このときのインパクトは今でも覚えている。(ちなみに見かけたのは池袋のリブロ)
ちょうどこのちょっと前に、『斎藤美奈子』という存在を知って、名前だけは覚えていた。で、ファーストコンタクトがコレだよ。なんかここまで圧倒的に太い本が最初の出会いだったりしたもんだから、なんかこれはもう買わんといけないだろう、とよくわからない使命感に押されて、購入。
1994-2007年まで、著者が書いたものを集めた書評集。
その名の通り、色々な場で掲載した書評を集めたものなので、一つ一つの書評は長くて十数ページ、短いのは一ページで完結するため、ちょっとした空き時間にちょこちょこと読んでいた。これが哲学書かなんかだったりすると完全に死にますね。
この本の特徴としては、この体裁と何より量によるものなのか、本当に多彩なジャンルの本に手が伸ばされているということ。これは、誰もが大型書店や図書館などに足を踏み入れたとき一度は思う「世の中にはこんなにたくさんの本があるなんて。自分には一生かかってもここにあるものを読み切ることはできないんだろうな。」という圧倒された思いへ、代わりにちょっとだけ挑んでくれているような気分(もちろん、どんなに読書量の多い人だって、この世にあるすべての書物を読破するなんてことは不可能だけれど。それでも、ね。)
そういった「本の紹介役」といった面があると同時に、やはりこれは『斎藤美奈子』の文を楽しむものでもあるということ、そんな当たり前のことがわかる。
あらすじを紹介するだけなら誰でもできる*1。大事なのは、そのお題(紹介するモノ)を通して、どれだけおもしろいことが言えるのか。延いては、どれだけその紹介したモノを自分も体験したいと読者に喚起させることができるのか。ということだとkiaoは思っている*2
そう思っていたら、後書きにこうあった。

書評の社会的な使命、それはひとえに「経済の原理」とは異なる立場からの価値判断を示すことだといえましょう。本もまた商品である以上、市場原理と無関係ではありえません。が、もしも書評という制度がなかったら、テレビ番組の視聴率と同じで、本の価値は売れた/売れないという数字でしかはかれなくなってしまいます。多品種少量生産を原則とする書籍という商品にとっては、「量」を示す売れ部数より、「質」をはかる書評のほうがほんとははるかに重要なのです。

たしかに。まあそもそも、流行りモノが大好きな人は、読書なんていうマイナーな趣味は持ち合わせているはずがないですし。
そういえば、本以外にも、映画には映画評論家がいて、音楽には音楽評論家がいるのに、TVにはTV番組評論家がいないことに気がついた。そうか、これから必要になってくるのは、TV番組評論家なのか−、って思ったけど、それは難しいか。第一に、TV番組はストックを前提とするメディアではないから、評論したモノを後追いで体験することが(基本的には)できない。ナンシー関だって、あくまで芸能界(を構成する芸能人)を批評したのであって、TV番組自体を批評したわけじゃなかったろうし。それとも、kiaoがそういう人がいることを知らないだけなのか。

ちなみに、<「質」をはかる>批評の場合、必ずしも意外なモノを取り上げる必要はない。大メジャーなものであっても、それを人と違った視点で論じられるというのも、一つの芸だと思う(それは本書の中でも取り上げられているし、これとは別に読んだ『趣味は読書』がまさにそのコンセプトで作られた本であったし)。

というわけで、書評をするには大きく二つの要素があると思う。
1.メジャーではないが、注目すべき本を取り上げること。
2.メジャーだが、人とは違った観点で分析してみること。

昔(今もいるの?)、数字三桁を名前にしたイラストレータがいて(個人的にはイラストレータだとは思っていないんだけど、本人がそう言っているので)、ある雑誌にコラムを連載していました。それは毎回一つの曲(主にJ−POP)を取り上げて、それに付随した文を書いていく、というものだったのだが……。
それがまー、挙げている曲はベッタベタの流行りモノで、それならそれで書いている文章という、それ、わざわざ書くほどのことかぁ!?というくらいの内容。お金をもらって何かを論ずるということは、ほんの欠片でもいいから、人とは違った(思いつかなかった)価値観を提供するということだということを、これっぽっちも認識してなさそうな文面。そりゃ「君の絵じゃダメだよ」って言われるわぁ、と思ってしまった……。あ、それともあれか。あくまで「この人が書いている」という事実自体に意味があって、その内容は問題としないということか。ごめんごめん、kiaoが間違っていた。この人を「何かを成し遂げてた」人だっていう認識がなかったもんで。この人の署名自体に価値があるなんて、想像すらできなかったもんで。
だって、この人の絵には、片岡鶴太郎的なところを感じるんだもん。

だが、鶴太郎自身は長年絵の修練を積んだわけでもないし、アカデミックな教育を受けたわけでもない。だからNHK教養講座『趣味悠々』で、「鶴太郎流墨彩画講座」の講師として出演していたときも、しきりに「下手でいい」「下手がいい」と言っていた。


(…中略…)


いつもその色彩感覚が賞賛されるジミー大西であるが、興味深いのは、自分のデッサン力のなさを気にしていることである。「いま、自分はデッサンですごく悩んでるんですよ。デッサン力があったら、自分の描きたいものが、十分描けるのに」(糸井重里との対談)。(…中略…)「下手でいい」だなどと言っている鶴太郎に聞かせてやりたい言葉である。


大野左紀子「アーティスト症候群」より


は、話が逸れたまま終わってしまった……。

*1:というか、それだけっていうのは、最もしてはいけないことではないのか?例えば、某宮川賢のニュースイジリ番組の、映画をアレするコーナー。あれふつーに営業妨害だろう!!

*2:そもそも、あらすじだけ紹介しているのなら、未読の人にとってはネタバレだし、既読の人にとっては価値のない情報でしかないのだから