急に悟って優しくなると、人からは精神錯乱だと思われるらしいよ
- 作者: ドストエフスキー,亀山郁夫
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/11/09
- メディア: 文庫
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「そうだな、第一には、せめてロシア式にと思ったからだ。こういうテーマになるとロシア人っていうのは、いつも、これ以上ないというくらい愚劣なやり方で話が進むからね。そして第二には、やはり愚劣なら愚劣なほど本題に近づくというところだよ。愚劣は明晰の母、とでもいうのかね。(…中略…)知恵は卑怯者だが、愚劣は真っ正直で、誠実だよ。(…中略…)おれがこうやって話を愚劣に見せれば見せるほど、ますますもっておれは有利になるっていう寸法なんだ」
噂に名高い「大審問官」が出てくる2巻だが、読んでみて分かったのは、この「大審問官」は単独での機能よりもアリョーシャが著述した「ゾシマ長老の一代記」と対にすることによって、より大きな効果を生みだすのだな、ということ。
それこそまさに「思想の戦い」であり、ドストエフスキーの小説が持つといわれている「ポリフォニー(多声性)」であるわけだ。
「大審問官」の内容というのは、所謂「宗教ってつまるところ選民思想じゃねぇ?」ってことなんだけど。「自分を信じてくれる人間しか救わないなんて、神様って案外ケチくさいんだな」みたいなことを言ったのは誰だったか……。でも、この感覚って、特定の宗教を人生の基盤としていない平均的日本人にとっては、そんなに大それた考え方じゃないよね。むしろゾシマ長老の感覚の方に驚嘆をおぼえるというか。
大審問官は悪の華といったところか。ただドストエフスキーも、21世紀の日本にあれが降臨すると、まさが仏陀と同居生活をすることになるとは夢にも思わなかったろうな〜(笑)*1
『カマラーゾフの兄弟』では、父兄たちはいがみ合っているが、いい子ちゃんのアリョーシャだけはみんなに好かれている。お前だけが唯一の理解者だ!! と*2。これさぁ、アリョーシャを”妹”にしたら、ラノベ読みに大受けするんじゃない?その名も『萌えカラマーゾフの兄弟』!?*3父兄たちはいがみ合っているが、純真な妹には萌える構図。最近流行りの”名作の表紙にマンガを使う”というのよりも売れるかも(笑)
……う〜ん、脳みそ腐っているなぁ。でも、妙にしっくりくる。
このあとの物語としては、ゾシマ長老がアリョーシャに何度も語った<『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』>という言葉がキーワードになりそう。
「いかがなもんです、いかがなもんです!」彼はアリョーシャに向かって金切り声をあげた。そして、熱に浮かされたような青白い顔でいきなりこぶしを振りあげると、もみくしゃになった二枚の百ルーブル札を、思い切りよく砂場に叩きつけた。(…中略…)
「あなたを使いに寄こした方にお伝えくださいませ。あかすりは自分の名誉を売ったりしませんとね!」
「母さん、ぼくの喜びの人。ぼくがこうして泣いているのは楽しいからで、悲しみのせいじゃないんだよ。だってぼくはね、あの人たちにたいして、自分から罪人でありたいって思っているんだから。(…中略…)すべてに対して、ぼくは罪があるけど、でもそのかわり、ぼくのことはみんなが許してくれている。これが天国っていうものなのさ。いったい、ぼくがいまいるのは天国じゃないとでもいうのかい?」
高貴さと感謝の念−−高貴な魂は感謝の義務があるのをよろこんで感じ、義務を負う機会を不安げに避けたりはしないだろう、同様にあとで感謝の念をあらわすのにも落ち着いているであろう、ところが下賎なほうの魂は義務を負うことに一切にさからうか、またはあとで彼らの感謝の念をあらわすのに大げさであり、あまりに汲々としている。ところでこういうことは低いほうの素性または抑圧された立場の人々のところでもあらわれる、彼らに示された恩恵が彼らには恩寵の奇蹟だと思われるのである。
フリードリッヒ・ニーチェ「人間的、あまりに人間的1」