残酷な夜 -Savage Night-

残酷な夜 (扶桑社ミステリー)

残酷な夜 (扶桑社ミステリー)

 彼女はささやいた。「か、顔はやめて、カール。顔だけは、な、殴らないで――」
 おれは新聞で彼女の腹を叩いた。軽くだ。胸も軽く叩いた。それから新聞を大きく振りあげて――じっとしていた。彼女に悲鳴をあげたり、身をかわそうとするチャンスを与えたのだ。そうしてくれればいいと思った……そうすれば、彼女は幸いではなくなる。
 世の中幸いな連中が多すぎる。
(P.149)

 『Vernon God Little』風に言えば、正しく「パラダイム(paradigm)」ならず「パワーダイム(power dime)」なわけでして。と、何が正しくなのかさっぱり分かりませんが。「安物雑貨店(dime store)のドストエフスキー」なんて仰有るから。
 
 
 本作では(でも?)主人公として、世間からの抑圧に翻弄され、社会の底を徘徊り、その心底に孤独と暴力を抱える男が登場する。その名は、カール・ビゲロウ。
 彼が足を踏み入れたのは、なんの産業もなく、農作物の取り引きだけで成り立っているような、唯一見所があるとすればメインストリートのどん詰まりに位置する(みすぼらしい)教員養成大学のみという、立ち枯れた町・ピアデール。
 そんな町へ、その唯一の見所と言っていい大学へ、しかも学期をだいぶ過ぎてしまってから入学するために、彼は<大学から来たリストに載っていたうちで、下宿代が一番安かった>という理由で、あのJ・C・ウィンロイの家へ赴くのだった。
 ……というのは名目上で、本当の目的はある男を秘密裏に抹殺するために。その理由は、<元締め>と呼ばれる裏社会の実力者であろう男の命令により。その目標(ターゲット)は、……言うまでもないほど明確だ。
 ウィンロイはこの田舎町(ピアデール)を出て、ニューヨークで床屋になった。なんの取り柄もない男。だが、選んだ店だけはよかった。そこは市庁舎のすぐ近くだった。ついた客たちもことさらよかった。
 ゴマすり、信用、呑み競馬、月百万ドルの賄賂の仕切り。しかしそこで得た金も、国や州、弁護士たちに奪われ、故郷に戻ってきた彼に残ったのは、あわれな女房と、彼が決め手の証人である大がかりな競馬の呑み屋の事件の裁判のみ。
 もし裁判が開かれれば、賄賂を受けていた腐った政治家やら判事やらの名前が明らかになるのは約束されている(彼は共犯証言をすることに同意して、その見返りに刑務所から出たのだから)。
 警察は彼が裁判の前に消されるのではないかと心配したが、そうはならなかった。世間は呑み屋にそれほど批判的ではないが、殺しとなっては話が違う。それに事に及べば、だいたい誰の仕業かすぐにわかってしまうからだ。
 しかし、カールはやらなくてはならない。<元締め>に言い訳は通用しない。仕事を辞めさせてもくれない。失敗も許されない。……彼に二度目は残されていない。
 

 元の場所。おれが前にいた場所。そして、くそっ、おれはそもそもそんなところにいたくはなかったんだ。
 (……だが友よ、ほかのどこに行こうというのだね? この、絶えず狭まっていく挫折の輪の中で、どこに逃げ場があるというのだ?)
(P.344)