初めてのノワールと短編集

取るに足りない殺人

取るに足りない殺人

この世界、そして花火 (扶桑社ミステリー)

この世界、そして花火 (扶桑社ミステリー)

 俺ほどトンプスンを理解できてる奴はいない
 そうだろおまえら
 
 −某掲示板より−

 はい、そのとおりです(笑)
 
 人生のどうしようも無さとか、おれは周りにいるこんなやつらとは違うんだとか、そんなことを思いつつも気付けば泥沼に嵌っていて、後戻りもできなければ出口もないどん詰まりに佇んでいる……そんな吹きだまりに身動きがとれず、コールタールに羽を絡め取られて飛び立つこともできず、もがき暴れ、ただ衰弱死を迎えるしかない鳥のような生き方。
 
 笠原和夫は脚本には切実なものが必要だと言っていましたが、トンプソンの小説にはまさにそれが、必死に押さえても傷口から滲み出る血のように、そこかしこに染みついているように思われるのです。
 

 そう、一九四五年、『イカしたねえちゃん(ア・ヘル・オブ・ア・ウーマン)』なるタイトルをつけれらたペーパーバックをシケた雑貨屋(ダイムストア)で買い求めた無数のフランク・ディロン*1たちに、トンプソンは精神の地獄を見せつけてやったのだ。こいつはてめえらの話なのだと。てめえらは安いろくでなしなのだと。てめえの真実を糊塗しつづけ、逃避文学に逃げ込むのが関の山のダメ人間なのだと。
 
 ジム・トンプソン(三川基好・訳)『死ぬほどいい女』「 <解説> 毒の脳内グルーヴ」霜月 蒼 (P.257)

 
 トンプソンの小説には随所に皮肉が効いています。皮肉というのは、残酷な現実からの仕打ちを異化するための、どこに行ったって逃げ場など無いのだからせめてその痛みだけでも和らげてもらうための、クスリみたいなものなのかもしれません。効き過ぎにご用心ということも含め。
 

 ああしなければならなかったのだ。事故に見せかけないと。だが、満足できるにはほど遠かった。あまりに単純だった。誕生の複雑なプロセスには比ぶべくもない。それに人生は、あまりに徹底して愚かな単純性に満ち満ちている。キャッチフレーズみたいな単純性―― "知恵" というやつ。低脳イデオロギー。モスクワに原爆を落とせ、貧乏人は幸せだ式の考えだ。人間はこういうナンセンス、こういう単純性と折り合いをつけて生きていかなければならない。だから、死んだ方がましなんだ。
 それがおれが思ったことで、キャロルも同感だった。
 「かわいそうに」彼女は言った。「ベッドで相手してやればよかったわ。いつだってそれで話がついたのに」
 
 『この世界、そして花火』収録「この世界、そして花火」 (P.248)

 
 この現実には、最後には全員ハッピーどんでん返しの大団円、……なんてロトで100,000$をぶち当てるくらい、お目にかかることは稀でしょう。今更ご都合のよい、ベッタベタな、チュッパチャップスのような、甘いファンタジーなどいらないのです。
 ただ、いくつもの傷を服の下に隠して、怒りを抱えつつ倦怠に巻き込まれながらも笑っている人間が、自分以外にもどこかに生きていることが確認できればよいのです。
 

 だけど、そのときにリョウくんと観た『真夜中のカウボーイ』と『イージーライダー』は、そういうのとは、まるでちがっていたんだよ。
 そもそも子ども向けの甘ったるい映画なんかじゃない。七〇年代のアメリカン・ニューシネマ。社会の中に自分の居場所がうまく見つけられない人たちの話だった。彼らなりに夢はあるんだけど、その夢も、ことごとく、うまくいかない。両方とも最後には主人公が死んじゃうっていう、どうしようもない話。それなのに、そのときわたしの心にはすごくしっくりきた。そんなことは初めてだった。
 
 西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(p.22)

 
 

*1:引用者注:この本の主人公の名前