水星Cのイメージは、板垣恵介が描く筋肉ダルマな感じ

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

少しネタバレになっている惧れがあるので、注意が必要かもしれません。




舞城王太郎の現時点での探偵モノのまとめ」といった感じ。
それはあくまで「舞城王太郎の」という注意書きがあってのもの。……と感のいい人なら分かるように、いわゆる「ミステリ」ではない。そもそも、今時ミステリに「○○探偵」なんて誰がつけるのかという話であって、逆説的にこれは「ミステリ」であるはずがない。もちろん、本文では殺人事件が起きて、謎っぽいことが発生し、一応推理してみせるのだけれど、その推理ですらこの物語を構成する一要素でしかないのだから。探偵はあくまで一ガジェット。『九十九十九』的な「探偵モノ」といえば多少分かりやすくなるのか……。

ごく大ざっぱにいってしまうと、「SF」です。言葉に言葉を重ねた文系SFといえばいいのか(そんなものがあるのかはさておき)。

だいたい、上巻の最後のほうにディスコ・ウェンズデイが解き明かすパインハウスの謎だって、最初読んでいても「は??何を言っているんだおまえ!?」という感じだったし。それでいいたいことが分かると「……え、えー!!んなあほなー!!」とすんごいぶっ飛んだ真実(というかなんなのか)にたどり着く。たぶん、純粋なミステリを期待するとここで本を壁に投げつけることになるので、「何が起きてもついて行こう」という人だけが下巻に進むことができる。当然、舞城初心者には勧められません(これをジャケ買したというめずらしい人がいたのだが、その人はどう思ったのだろう。感想を聞いてみたい)。

最初は読者と同じ視点に立っていた主人公ディスコ・ウェンズデイが、この奇っ怪な事件に関わっていく内にだんだんと読者には想像もつかない世界観を把握し始め、ついにはこの物語という世界を牽引してゆく(と同時に読者よりも前をずんずん進んでいってしまう)存在へと変化してゆく過程は興味深い。

九十九十九』では「記述」というレベルで「等価」というテーゼを用いたが、本書では「(見立てにおける)推理」という行動に「等価」を持ってきている(kiaoは舞城王太郎の小説におけるテーゼに「等価」というキーワードがあると思っている)。

水星Cの存在感は抜群すぎる(強すぎかも)。

エンジェルバニーズのあの軽い感じは、今の若手の作家って上の人たちにはこう見えてるんじゃないかな〜、というのを書いてみせているような気がしたのは、単なる邪推だろうか?

幼女(養女)を育てていずれはオレの嫁に……みたいな伝統的な男のスケベ心(笑)に対して、ここで一つの決着がつけられているのもおもしろい。未来の梢によって*1、6歳のころ(つまりはディスコと過ごした頃の記憶)はほとんど憶えてはいないことが判明する。
まあ、現実はそんなものですよ。
だが、ここで舞城は諦めなかった(笑)たしかに、現実の人間はそんなものだ。ただ、そのころに持った「気持ち」というものは確かにあったはずだ。<「人って空間は意識で固まっている。意識から生まれた気持ちも、強いと固まって形を作るんだよ。たぶん自分そっくりに」><気持は力を持つ。 だけじゃない。 何かに対する強い思いや感情は声も形も持つんだ。>
えー、本人の「気持ち」を「(人の)形」にして、その「気持ち」に自分を愛させてしまうとは……(笑)。


まあなんだかんだいって、最終的にはポジティブに持って行くところもまた舞城らしい、と。この強い肯定感があるからこそ、読後に救われた感があるというもの。

時間があったらもう一度読み直したい気もする。

つまり存在するということは、時間とは関係ない訳だ。存在するということはフィルムに焼き付けれらた写真のように在り、それが「今」という光を当てられて一つの…あるいは無数の映画を上映しているようなものだ。ならば梢と十一年後の君が別々に存在するように、僕と次の瞬間の僕も別々に存在しているんだろう。一瞬を切り取るフィルムの一コマの中でそれぞれ。でも僕は一瞬前、一瞬後の僕について、君が梢について感じるみたいに別の存在としては感じれらない。
人間存在(human being)とはなんだろう?

*1:読んだ人は分かっているだろうけれど、今は便宜上この呼び方で